チェンバロの装飾は概して二つの方向性を持っています。
ひとつは初期イタリアンなどに見られる造形的な意匠、例えば鍵盤のキィ前面に施された、半円形に彫り込まれる「アーケイド彫刻」や、ボディ全体を囲い込むように貼り付けられる額縁状の凹凸をもった「モールディング」。響板中心部に開口された丸穴にはめ込まれる「ロゼッタ」など、チェンバロという楽器の造形的エッセンスとして大切な意匠といえます。初期イタリアン・チェンバロは素材の木地を生かして製作されるため、このような凹凸のある部材を要所に配置して、全体を引き締める役割を担っているのです。
反面、楽器を絵画的な趣向で彩ったのは、17世紀に台頭するフランドルのメーカーです。代表格のルッカース工房の行った装飾は、あきらかに楽器を調度品として意識して製造しました。ルッカース工房の装飾意匠はざっと三つの要素から成り立っています。
1.響板の花鳥画 2.唐草紙張りの内装 3.大理石模様塗りの外装 他にも数え上げたらキリのないほど細部に渡り装飾要素が取り入れられています。
まず響板の花装飾を見てみましょう。じつは花と言いながら花以外のあらゆる動植物が、所狭しと書き込まれています。果実や鳥、昆虫類からエビや貝類まで総動員、ロゼッタの周囲のリースは二人の天使が掲げています。
天使はともかく、これらの生物の出自は、当時流行していた博物画集からの転用であることが知られています。時は大航海時代、世界中の珍動植物への興味が沸き上がり、これらの解説書である博物画集が相次いで刊行された時代でした。(中には実在しない空想上の動植物も相当数含まれていたらしいですが。)
工房のあったアントワープ市は画集印刷、刊行の拠点でもありましたので、これらのネタは身近にいくらでもあったのでしょう。そして同時代の大画家ルーベンスの絵画工房もアントワープ市内中心部にありました。この工房は盛期には100人近い画家の見習いたちが出入りしていたと伝えられているほど活況を呈していたので、響板に絵を描かせる人材には事欠かなかっただろうと想像されます。
次に唐草模様紙、これも他に見られないルッカース工房の特異な要素の一つでしょう。日本にはこういう模様は中国経由で渡来したので唐草と呼ばれますが、元ネタはアラビアです。ヨーロッパではアラブの別称であるムーア装飾と呼ばれて、やはりこの時代の流行モノでした。イスラム圏では戒律で偶像崇拝(※)が禁じられていたので、高度な幾何学模様や特定の意味を持たない蔓草や組紐のような装飾要素が発達しました。これらはヨーロッパにもたらされて西洋風にアレンジされ、バロックやロココなどに見られるエレガントな洋風唐草模様に完成されていく訳ですが、ムーア装飾はその原型です。
※元来キリスト教も禁偶像崇拝でしたが、宣教の過程で薄まってしまったようです。
さて、外装の大理石模様塗り。我々東洋人には何とも感覚的に理解しにくい仕上げではないでしょうか。やはりヨーロッパは石の国、石造建造物は古代ギリシャ、ローマ時代から3000年の歴史を誇ります。石の偽装塗りはおそらく石造建築の歴史とともにあったのでしょう。実はヨーロッパを旅すると教会やホテル、レストランや歴史ある商業店舗など、あらゆる場所にマーブル・ペイントの技術は見かけることができます。ただそれらがあまりに周囲のインテリアに溶け込んでいるので、よほどこの技術に興味をもつか、非常に稚拙な技術でない限り見破ることはできない。疑似大理石塗装は現代でも日常に使用される歴史ある伝統的塗装技術なのです。
チェンバロの外装にこの技術を採用したルッカース工房のセンスには、調度品とはいえど簡単に慣れるのは、日本人には難しい。現代の我々の居住空間にベストマッチとはいかないでしょう。ひとこと付け加えるなら、ルッカース・チェンバロのマーブル塗装技術は、程度の差はあれ、あまり高いクオリティとはいえない現実があります。このあたりの稚拙感をどの程度再現するべきか?楽しい悩みではあります。
ルッカース工房の装飾要素は、これ以外にも色々あります。屋根の裏に書き込まれるラテン語の格言は、油彩の風景画に変えられるオプション設定があったようです。おそらく近所のルーベンス工房にも取引はあったでしょう。
現代では比類なき芸術作品も、当時は商品として取引されていた商業製品だったのです。
18世紀は宮廷文化がもっとも華麗に花ひらいた時代。ヴェルサイユ宮はその頂点に君臨する絶対王政の象徴でした。チェンバロは宮廷音楽の主役の座を得て、宮廷を彩る数ある調度品類のなかでも最高峰の芸術工芸品として飾り立てられました。
この時代に流行した異色の装飾芸術が、シノワゼリー。文字通りの解釈なら中国趣味ですが、後期にはアジア一帯、中東、インド、アフリカ、エジプトまで含む何でもありの異国趣味。
宮廷文化も何百年も経つと自国の様式の変遷には飽きてくるのでしょうか、端正なルネサンス様式から歪んだ真珠バロック、より軽やかなロココ様式と、気まぐれな王侯貴族らのインテリア趣味もここに極まれりの感があります。
この異国趣味の根底にあるのは、東方貿易によってもたらされた、中国や日本の陶磁器類、漆器、調度品類にあることは言うまでもありません。東洋では日用品であった陶磁器類もところ変われば宝の山。自国で製造できない、透き通るような白い磁器肌に、流れるように描かれる青い染付の文様や赤絵などは、自然の中から産出される貴金属や宝石などより、さらに高貴な輝きに満ちていたのでしょうこれらのコレクションに夢中になる貴族たちの気持ちは良く理解できます。
かくして陶磁器から派生した東洋趣味は、宮廷文化人たちの居住空間を彩り、家具調度品類から一部屋全体の統一したインテリア空間コーディネートにまで影響を及ぼします。
その一部は軽やかなロココの夢幻な世界と合流し、やがて忍び寄る革命の足音から逃れるように。