初期ピアノの解説
私自身はピアノの技術畑出身ではないので、ピアノという楽器にはそれほど興味を持てないでいた。クリストフォリという人物が歴史上ピアノの発明者であるという話は、もちろん知ってはいたものの、関心事では無かった。革命によってチェンバロは居場所を奪われ、その座に収まるべく、チェンバロを改造して打弦装置を組み込んだ、一時しのぎの楽器だろうと、勝手に思い込んでいたのだった。
2000年のミレニアム・イヤーに、ピアノの歴史300年という催しがいくつかの会場で開催され、ピアノ以前の楽器という立場で、チェンバロの展示にもお呼びがかかり、原点であるクリストフォリ・ピアノの事を知るに及び、腑に落ちないところがあった。
2000年から300年前といえば、まだチェンバロの全盛期、革命どころか二段鍵盤が成立したかどうかという時代だ。私の思い込みから100年ずれている。
クリストフォリはこんなに早い時期に、打弦アクションを開発した?何故?
ピアノ技術系の人たちの間でも、当時はまだこの楽器の評価は二分されていたと思う。完成された天才の発明説と、チェンバロに稚拙な打弦アクションを組み込んだだけ説。私はといえば深く調べる気もなく、漠然と後者寄りであった。
まもなく、クリストフォリ・ピアノの復元に情熱を傾けているピアノ技術者と、運命的な出会いのご縁をいただいた。堺市でアンティーク・ピアノの修理で名を馳せるY氏は、私にクリストフォリ・ピアノのアクションの無敵な性能について、熱を持って語るその熱心さは宣教に近いものであった。疑い深い私は半信半疑、現物を見るまでは納得しがたい性格なのだ。
まもなく、Y氏の情熱によって見事に復元された件のクリストフォリ・ピアノを実見出来る機会に恵まれ、心底驚嘆した。彼が心酔し宣教する理由、いやそれ以上の何ものかが確かに存在する楽器であった。
確かに外見は特に変わった様子のない、イタリアン・チェンバロの典型である。しかしこのボディに組み込まれたアクションのみならず、内部構造も外見からは想像もつかない、天才の発想の集積なのであった。
このアクションは数奇な運命の末、14年後にドイツに伝えられ、その図面がザクセンのオルガン工匠にして鍵盤楽器工房の雄ゴットフリート・ジルバーマンの目に留まる。ジルバーマンは一目でこの新機構に新たな鍵盤表現の可能性を見出したのだろう、数年後の試作楽器を親しい鍵盤音楽の巨匠バッハにその試奏を委ねた。
よく云われるようにバッハはその新楽器=ピアノを否定的な意見をもって見下し、不名誉な結末を招いたかのような伝説が流布されている。本当にそうなのだろうか。
この伝説はフォルケルのバッハ伝の中の一節をもとにした伝聞で、その情報の多くは大バッハの次男C・Ph・エマヌエルからの口伝によるものだといわれる。エマヌエルは自分の父、大バッハを心より尊敬し父の仕事に心酔していた。意図的にではないにしても父バッハの威厳を保つ体面として、幾分か脚色された件の話をフォルケルに伝えたかもしれない。
ジルバーマンのピアノはその後改良を加えられ、エマヌエルの仕えるフリードリヒ大王の宮廷に大量にお買い上げ!という名誉に浴し、有名な大バッハと大王の邂逅場面において、大王の提示した主題とそのフーガ=音楽の捧げもののテーマを、バッハが「ピアノで御前演奏する」という信じがたい一場面が実現されるのである。
バッハとピアノの関係は、今のところこれ以上の正式な接触の記録は見えてこない。しかし極めて断片的な情報、例えばバッハの使用した「今まで見たことのない新しい鍵盤楽器」の新聞記事や、バッハがこの新楽器の販売代理人であった?かのような「サイン入り代金受領書」の存在、そして死後の財産目録の中の、異常に高額な査定のなされた「化粧張りの鍵盤楽器」の存在などが、あらぬ想像を掻き立てるのは間違いない。
ひとこと付記しなければならないのは、当時この新しい機構をもつ楽器を「ピアノ」と呼ぶ習慣はなく、チェンバロの特殊な一機種として位置づけられていたのである。
その後フリードリヒ大王の率いる屈強のプロイセン軍は、オーストリアとの戦争に突入し、ジルバーマン工房は楽器製作どころではなくなってしまった。工房の愛弟子たちは、いち早く産業革命で好況に沸くロンドンに移住して、その新楽器のアクションを伝え、イギリスをピアノ製造大国に導いたのであった。